『鏡の国のデューク・エリントン楽団』大谷能生

『新潮』得意の異業種作家シリーズ。というほどのものでもないかも知れないが、大谷氏の(どちらかといと)本業はミュージシャンのようである。ネットを見る限り。
でそういう人がデューク・エリントンの周辺の事を書いているわけだから得意分野そのまんまではある。ただ、妙なチャレンジ精神を発揮して全く違う世界を書いて失敗するよりは全然正直でいい事だと思う。
と書いてしまったが、その技術は侮れない。読み難い箇所もとくに無いし、ともかく文章自体は素人らしさは殆ど無く手馴れているし、情景も自然と浮かべることができる。
難をいえば、話として少しとっちらかったというか、焦点が無い状態というか、な事。いわゆる非リアリズムであるこの小説的な企みの一番大きなものは、主に未来の人が時空を超えてデュークの世界の人々とコミュニケーションする事。しかしそれはただ話すだけで、それらが何かに繋がっていくわけでもない。他にも、デュークの内に秘められた狂気とか、同性愛とか、アメリカの対外政策などのテーマにしてもただ放り出されるだけ。
ただこれらの小説的な欠点が、今回は上手く作用しているのではないだろうか。色々な人が自分勝手にいろいろなものを放り出す事。これこそ「アメリカ」ではないか。著者はつまり話を紡ごうとしたのではなく、アメリカを切り取って見せてくれたのである。
そして更にいえば、このような各人が各人で勝手に放り出すというのは、ひとつの「ジャズ」のスタイルでもある。きちんとしたメロがあり曲に起承転結がある整理された音楽ではなく、ジャズは始まりも終わりもあってないような音楽である。したがってこう言い直さなくてはならない。著者は、ジャズ的な小説を書くことによりアメリカを切り取って見せてくれたのだ、と。
そしてこのように切り取られた光景が「世界」の顔をしている事も感じさせてくれる。アメリカの人にとって世界=アメリカである(アメリカ一を決めるのに"ワールドシリーズ"ですから)、という雰囲気は充分伝わってくる作品である。