『フル母』井村恭一

ちょっとオマケ気味だけどすごい面白かった。小説中で何もたいした事は起きないにも関わらず、面白いというのは滅多にない。
まず面白い他の作家にはない鋭い比喩や、描写における形容があって、飽きさせない。ここが一番キた。
会話も面白く、全てのキャラの存在が楽しめるものとなっている。同居している女性との微妙な関係、姉との一方的な関係、それらが実に上手く描かれている。その題名に関わらず、母親が記号的にしか存在しないというのも面白い。母親は実在しつつも非リアリズムに片足をいれつつ、極めて間接的にしか描かれないことで、それを巡る物語であることを一層際立たせることに成功している。
主人公は酒ばかり飲んでいて、その人を食ったような冷めたところと、それでいて人に対する信頼みたいなものは人一倍あるような所が同居していて、なかなか得難いキャラである。冷めた目で俯瞰的に見るだけの主人公ならばいくらでもいるのだが。むしろこれだけ、徹底的に来る者を拒まずでいられるのは、ある一本筋の通ったものがその人のなかに無いと難しいだろうと思う。
そして何といっても、ずかずか上がりこんでくる知り合い初老男性の傾き方がいい。こういう屈折を、これだけ締まりのある短い会話(彼が経営する喫茶店でのそれ)で出せるというのは、相当力のある作家であると感じさせる。
世間に対して屈折するのであれば、ここまで屈折しなきゃウソだという意味で、他の小説にたいしても批評的な小説といっても良い。
この作品は今年の前半期の収穫ともいえるが、惜しいのは寡作であることか。


以下は例によって旧い号、『新潮』より