創作合評−岡松和夫+小池昌代+田中弥生

笙野頼子が入った合評をなかなか楽しみにしていたのだが、またメンバーが変わった。特筆すべきは田中弥生が議論をひっぱってるように見えることで、評論家筋が中心になってる合評というのは最近なかった気がする。
私が昨日最低評価を下した前田作品で、3氏ともまずまずの評価をしていて、逆に東(+桜坂)作品の評判はあまりよくない。
田中弥生が前田作品のネタばらしみたいな事をしていて、なるほど省みてみればたしかにそうとしか読めないのだが、このへんを言われるまで気付かないあたり、私も相当頭が悪いんだと思う。
で田中氏は、この作品はこういう自分みたいな読み方ができなければ面白くないだろう、という。ということは、私が面白く思えなかったのも無理はないわけだが、かといって今後そういうふうに読もうかと私が決意するかというと、作者には悪いが遠慮したい。だって金払って疲れることしたくないもの。無いアタマでいろいろ考えると疲れるんですよ。
それに他の批評的文学作品はともかく、この前田作品に限っての事なのかもしれないが、そういうゲーム的な構造を解いたところで、読み進めていく間の退屈が解消するとは思えない。あの作品のなかの「神」が退屈だったのは、結局ひとりの自我のなかのハナシということで合理化されるのだが、それにしたってその自省の内容が凡庸すぎる。また、「神」という装置まで使って妻の内面に入って語っておきながら、妻にその浮気相手を生理的に嫌悪させてるのだから、逆というか、あまり共感とか理解しようという気味を感じないのは何なんだろう。
でもまあ文学作品が、よく分からないのは、それはそれであっていいかもしれない。やはり、小池昌代が面白いと感じたらしい日常生活上のちょっとした観察、あのての凡庸な部分を省いて分量を半分にしてくれれば、まだ少しマシだったかもしれない。


前田作品の批評になってしまったが、創作合評についてであった。
東浩紀の作品についてこれほど評判が悪いのは意外だったが、私もキャラクター小説とはなんぞや、と考えてしまった。
ラノベだのの娯楽系の小説におけるキャラクターと、純文学における人物像を混乱させて捉えてしまうと、たしかに「キャラクター」としてみれば純文学におけるそれのほうが強烈だし面白い。娯楽系は、「話」のほうが中心であって(例えば推理小説では謎解きであり、SFであればその世界観であり)、人物描写はステロタイプ、ありきたりだ。
だからほんとに面白い「キャラクター」に出会いたいのであれば、純文学読むべきであって、それゆえ私もミステリ、SFなどほとんど読まないんだけど、「キャラクター小説」というときの「キャラクター」は、どうもそういう事が要求されていない感じがする。
リアルであるよりも、都合の良い、作られ感の強いものが肯定されるというか。
つまり、小説などにおいて登場人物をリアルと感じるその事じたいが、近代というものを作り出して我々を縛り付けてきた文学を無批判に受容しているということ?なんだろうか。
そういう批評意識は分からなくはないけど、今のところ金払ってつまらない思いをしたくない、という以上の結論は私にはなくて、既存の文学が解体されてラノベ的なものばかりになれば、さっさと文学雑誌など買うのやめようと思う。
べつに古本の岩波文庫とか新潮文庫で、ドストエフスキーだの夏目漱石だのバカ安く手に入るし、それでいいや、と思う。


ところで田中弥生文學界で新作評論しているときは、なんか、意図せずテクストが現してしまってることを読みすぎてハズシてないか、と思うこともあったけど、やはり基本的にはなかなか読みが鋭いんじゃないだろうか。今回の合評を読んでなんかそう思ったし、現在の文學界の新人小説月評読むとこれがつまらなくて、その田中弥生高評価の思いを強くする。