『誰かが手を、握っているような気がしてならない』前田司郎

前作はそこそこ楽しげな作品だったように思うが、今作は人間観察というより観念論であって登場人物の独白が大部分を占め内容的にも退屈なうえに、やたらと長い。ここまで長くする必要性があまり感じられず、そのぶん[紙の無駄]とさせてもらった。必要性といえば、内面の語り手がシームレスに変わるのも、テーマに沿ったものとはいえ、あまり効果的な趣向とは思えなかった。
強引にまとめると、多人称小説のようにみえてじつは集合意識というか神の一人称だった、みたいな内容。で、手を握ってくれてるのもけっきょく内部の人間じゃないか、という所で、閉じた感が顕著で、引きこもりだのニートだのにシンパシーを持つ近い世代が宗教的な事を書くとこんなんになっちゃうんだろうか。
たとえどんなに安っぽい新興宗教だって、家族を壊し共同体から個人を引っぺがす異物感があるはずで(いつぞやの平田俊子の秀作のように)、そういう緊張感のないところで「神」だのなんだの言われても、観念を遊んでるだけという感じだ。悩みなど、そう簡単に自省で解決できるものでもないだろう。
しかもその遊びは、言語論的なことや社会学的なところまで冗長に拡大されて、誰もが考えそうな内省があっちへフラフラこっちへフラフラ繰り返される。主人公がただの小市民であれば、設定上ありきたりな内省になるのは仕方ないにしても、読まされるほうは辛い。
しかも、演劇出身者らしい作者のサービス精神のせいなのか、様々なギャグ的記述も散りばめられたりしているのだが(例えば「兄」という字をめぐるところなど)、個人的にぜんぜんヒットしてこない。このへんは、本谷有希子なんかとの大きな、しかも重大な違いであり、そのハズレっぷりも印象を悪くしている。面白さというのは、それを提出する人じたいが楽しさを感じていない、そんな雰囲気が少しでもあると冷めてしまうもので、本来面白いと思えることさえも、たいして面白くもないというふうになってしまう。ただし、こういうギャグ力は生得的な部分がつよく、意識して得ようとしてもそれがまた受け手に伝わってしまったりするから、非常に難しい。


※書き終わってふと思ったんだけど、これ、集合意識というかそうじゃなくて、「神」=父親そのまんまであって、母親のせいで家族から疎まれそうな末娘が、父親を覚醒することで、母親を取り戻そうとしたハナシなのかな。だからといって面白さにはもちろん繋がらないんだけど。