『臈(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』終章 大江健三郎

文庫で50円くらいで手に入る初期作品をわりと愛読していた大江健三郎の、最近の作品を読むのはこれが初めてだったのだが、予想に違わず面白くはなかった。
WEBで読める新潮の編集長のコメントでは、祝福されたハッピーエンドとなっているが、現代になって話は淡々と終わった印象だ。とりあえず結局国際的女優さんの念願どおり一揆を主題にした映画をとるということにはなったのだが、なにしろ、話はその映画の準備をする、その前段階くらいで終わってるんだもの。たしかに映画が完成しなくても、完成した映画についての小説を書けばいいのだ、ということで、どう転んでも良いようにはなったのだからハッピーエンドなのかもしれないが、あくまで例の女優さんの精神的リハビリテーションはこれでOKってだけのように思える。彼女が被った虐待についての国家的な力関係という背景も、とくに問題として広がらずに終わってしまった。
また、これが60年代ならまだしも、政治家が競って「共生」などと言わねばならないほど横のつながりが見え難くなり、共産主義という原理が完全に崩壊した現在において、単純と思える大衆運動についての映画を作ることの意義もよく分からない。この映画を作るのは、病身のプロデューサーと大江氏と女優だけでいいんだ、といわれても、身内でそんな事をやってどうするのか。身内で閉じた自己満足的な自主制作映画でいいのか。むしろ、映画界にはもうそんな映画を作りたがる人はいないという現実を、挫折をつうじて描いたほうが良くはなかったか。
この小説で唯一面白かったのは、大江氏が過去に暴力的な新左翼を嫌ってるようなくだりが書かれていたとこだが、むしろその新左翼の一部のひとたちのほうが、現代においてどういう「一揆」が可能かについて、より深く悩み考えているように思う。近頃は単純なゲリラ活動や爆弾事件など全くなくなってしまった事でもそれは分かる。あながちそれは、構成員や活動資金が減っているという理由だけによるのではなかろう。
ともあれ、今後もこのような作品ばかりであれば、やはり大江氏は、大江氏が望むほどには(大衆からも下手すると作家評論家からも)言及されない作家になってしまうように思う。だって、言及しづらいんだもの。
大江健三郎という作家は、普通の純文学作家には納らない異物感を感じさせる人なので、いろいろ活動を続けて欲しいなあとは思うのだけども、単行本とか買うかといったらやっぱ正直買わないです。