『臈(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』第二回 大江健三郎

一回目の内容がたんなる回想のスタート地点でほとんど何もないような内容で、作家生活50周年と題してこんなんかよ、という思いがあったのと、こうも毎月連載のように作品が掲載されると、金払っていながら読んでいないことが悔しくて、早速2回目を読んでみた。・・・のだが、う〜む。
ほとんどがノンフィクションのようなフィクションの、この「あいまいな」スタイルは、きっと大江氏のこれまでの作家生活の流れのなかでは自然なものなのだろう。ほとんどフォローしていないので分からないけど。
とりあえず、へんに作りこまれていないぶん、思ったより読み辛くないのは良かった。


どうも、この子役〜国際的女優である異次元的な女性に対するセクシャルなスキャンダルを暗示しているような内容だけど、こういう性的な問題へのこだわりも、私が考える大江氏らしさにピッタリ合致という感じ。それは、形而上的な思考に片寄らず、にんげんというものを全体的に根源的に捉えてる、にんげんの描きにくい事も書いていくっていうことなんだろうけど、やっぱどこか超然としている感は否めない。
女性同士の会話にすんなりと溶け込むようなフェミニンな感じも含めて、それが大江らしさなのかもしれないけど、やっぱ大江氏に私が個人的に期待するのは、もっと汚く、もっと表面的にって言ったらいいのだろうか。


大江氏ほどサヨクの象徴として、罵られてきた作家もいないと思うんだよね、実際裁判も継続しているし、また、身内とも思える本多勝一なんかにも嫌われてるし。彼しか書けないような、汚い現場ってすごいあると思うんだよね。そりゃ昔の、暗殺右翼少年をモデルにした小説をめぐる話なんかは書きにくいだろうし、そこまではやってしまうと家族との安寧な生活が守れなくなってしまうのかもしれないけど、すごく惜しいと思う。私小説的なものを書くなら、いままでにあったいろんなゴタゴタほど面白いものはないんだけどな。
そういう汚い、政治的動物としてのにんげんを書いていくことこそ、ほんとうに政治にコミットするっていう事になるんじゃないかと思う。言うは易し、かなこれは。失礼。