『舞い落ちる村』谷崎由依

新人の小説として技術的な意味でとてもよく書けていると思うけれど、内容に納得いかない、という所なので評するのに少し困った。
内容に納得いかない、というのはうまく言えてないけど(いや私の拙い表現力ではうまく言えてる事なんか滅多にないんだけど)、ぶっちゃけた話、主人公の分身的存在でもある親友女性が姿を消してしまったのがあまりにあっさりしすぎてるというのが、残念というか納得いかないのだ。
彼女をもっともっと物語の中で生かして良かったのではないか。
言語に生きる存在としてどうしてもその親友女性の方が私(われわれ)に近しく魅力的なわけでそういう気持ちにもなったんだけど、まあ、それくらい感情移入できるキャラを作れる力量が作者にある、という事の証明ではある。


以下ネタバレ的にいうと、主人公は、都会的な、時間できっちり計られ言語がコミュニケーションとして力をもつ世界になかなか馴染めず、それでもなんとかやっていけそうな段階になって、村に戻ってしまう。また、都会的世界の象徴である女性の友達は主人公が都会に不在のあいだに姿を消してしまう。
ここで、そんなに簡単に言語的な都会世界が負けるとは思わないし、またいっぽう、言わなくてもお互いが分かるような共同体世界に同化するのだって、もっと複雑な過程があっていいのではないか。と思ってしまうんだよなあ。浅田先生(次郎じゃないよ彰だよ)も選評で、よく覚えていないが、そういう規範とか日常を破ってこそ小説みたいな言い方をして、やはりこの作品のストーリーの収まり方には疑問を呈していたけど、私が言いたいことも遠くない。


とここまで書いて気付いたのだが、この小説で敗れた側の方が主流の現代的ありかたであることを考えると、作者は日常的な規範内に収めたというよりもむしろ規範に疑義を提出してるのだ、と言っても良いのかもしれない。この収まりを現代にたいする異物として出しているのかもしれない。
いやそれでも、だとしても、こうあっさりと都会の側を負けさせてよいものなのか。
それ相当の抵抗があって初めて土着的自然の勝利が説得力をもつのではないか、あるいは、土着の側の負けを悲壮をもって描くほうが現代へのアンチとして説得力があるのではないか、などと考えてしまう。
でもそうすると小説としてありきたりな内容になってしまう可能性があるし、分量的な制限もきついかもしれない(小説というのは難しい)。


それにしてもこの土着世界のディテール・仕組を作り出したそのアイデアの一つ一つが秀逸だった。言語的でない様をある意味極端化して描いているのだが、そのデフォルメのセンスがいい。これはこの小説の特筆すべきところ。
とくに、歳を取ること取らないことに関する虚構などは面白い。赤子がいつのまにかいる情景、とか、顔の見えない相手との夜這、老婆たちの元気っぷりなど、この架空世界はとてもよく作られ、生命感がある。あくまで現実への批評としてのデフォルメなので、そこらのSFで出てくるような異世界とは全く質感が違うのだ。
またその描写をするにあたっても、情景描写が長々とくどかったりすることもなく、純文学的暗さは漂うのだが粘着的に塗り重ねたりはしない。つまり読みづらさはまったく感じない。
この極端化という虚構の力強さは、かつて日本の村落などにありえたであろう、村(共同体)が無言のうちに強いるもの、また守るものなどをより強く意識させるのに成功しているように思う。読むほうとしては、これが古臭いかつての世界だけのことなのかどうか。とか、言語に裁断された殺伐の現代に暮らしているかにみえて、多くの人はまだ共同体的なもの半身を縛られてはいやしないか、などと考えてしまうのだ。


川上弘美には烙印をあからさまに押されてしまったが、ほんとうに川上に似てるかどうかは私には分からない。
ただ他の選考委員が皆重大な疑義を呈しなかったことから考えれば、そう深刻にとる必要はないのではないか。むしろ川上があれほどあからさまに否定しようとしたその余裕のなさこそ自分の力量の証明であると考えて、作者には今後頑張ってほしい。