『新潮』 2009.1 連載評論

最近印象的だったのが、先日見たチリの独裁政権に関するドキュメンタリーでした。
まあピノチェトが行った事はすでに広く知られていて、ドキュメンタリーのなかで大きな新事実が出ていた訳でもないのですが、ピノチェトの熱狂的な支持者が居ることに驚きました。あの映像はまさにドン引きという感じ。
彼らは集まって、反ピノチェトの人に対して「お前らの親類は負け犬だ、だから虐殺当然!」みたいなシュプレヒコールを繰り返してるんです。で、「ピノチェトを有罪に出来なかった、ザマーミロ」みたいな事まで言うんです。なんかひどいなあ、と思いました。社会主義がそんなに嫌いならそれでもいいんですが、あの大人気ない言い方を大の大人がしているということに驚かされました。


※なんか津村さんの作品に触れたページに異様にコメントがあったので、色々調べてみて初めて知って驚いたのですが、グーグルで「ポトスライムの舟」で検索するとここが上位に来るんですね・・・。『群像』ってつくづく日頃から言及されない雑誌なんですね。こんなのが上位に来て津村さんには非常に申し訳ない気がいっぱいです。

『母性のディストピア−第三回』宇野常寛

今回は矢作俊彦についてらしいので目を通すことにする。(高橋留美子だの何だのいかにもサブカルもフォローしてますよみたいな名前はどうでも良い。)
冒頭から暫く、下北沢なんかに依拠して抵抗したって間抜けだよ、となかなか良い事を言ってるようなのだが、なんかやっぱ結論がずれてるよなあ。グローバリズムは不可避だからシモキタなんかに依拠したってダメというのはその通りなんだけど、事態は一回りその外側から強化されてるんじゃないのかな。つまりグローバリズムこそが、「シモキタなんかに依拠したってダメ」と思わせる当のものであって、且つ、「シモキタなんかに依拠したってダメ」と思い込むことがグローバリズムを更に強化させてるんだと思うけど。
矢作俊彦なんだけど、どうも宇野氏が多用する「回路」という言葉がいまいち分かり辛い。だからちゃんと読めてるかどうか不安なんだけど。
これって他の普通の言葉を使っても十分通じるんじゃないか。たとえば−
「戦後日本の文化空間とは、サンフランシスコ体制のもたらしたアイロニカルな回路で駆動された空間」なんて回りくどい言い方しなくても、
「戦後日本の文化空間とは、サンフランシスコ体制がもたらしたアイロニカルな空間」でいいじゃん。いちいち間に回路を駆動させないと「空間」が出現しないわけでもあるまい。どこか違うのだろうか。
まあそれはともかく、矢作俊彦が「気分はもう戦争」と言ったからといって「偽悪」という理解はいかにも単純すぎないだろうか。矢作俊彦本人は、偽だろうが真だろうが、自らが悪であることの自覚など無いだろう。矢作はただリアルなものを提出しただけであって、彼に撃たれる戦後の側がむしろ「偽善」なのだ。憲法9条に見られるが如く。
ここでかつて矢作が内田樹高橋源一郎らとどっかの文芸誌で語り合ったとき、彼らが憲法9条の曖昧さをむしろ肯定するのに呆れていたのを思い出す。
だから私の理解では矢作俊彦は「戦後の文化空間」を強いと思ったり、愛したりした事など無い筈。内田や高橋のように未だに世間で認知度の高い戦後人が憲法9条を称揚するようにさせた戦後の文化空間のどこが「強い」のだろう。と矢作なら思うのではないか。むろん「戦後の文化空間」とは「サンフランシスコ体制がもたらしたねじれた空間」などではない。そのねじれを見ようとしない空間のこと。
つまり戦後の文化空間とは宇野氏の言うように「サンフランシスコ体制のもたらしたアイロニカルな回路で駆動された空間」だとは私は思えない。最初からアメリカを意識した空間として戦後の文化空間なるものが存在したなら、江藤淳があれほどしつこく占領軍のやったことを暴くことなどなかったろう。そう。江藤は暴いたのだ。そして暴くという事は隠されているという事。<アメリカ>は隠されていたのだ。(←私も<>を使ってみた。)
江藤がなぜああいう仕事をしてきたかといえば、彼の撃った戦後空間が、アメリカに支配されていながらその支配を見ようとしなかったからだろう。
それに比べてヨコハマ・ヨコスカという場所は、アメリカを見ようとしてきた。矢作はヨコハマ・ヨコスカをそれ故に愛したが(港北区とかあのへんは除いて)、「戦後」など江藤淳と同様、愛していないだろう。
どうも全共闘運動というといかにも戦後的な出来事のように思われ、ノスタルジックに語られがちで、まあ宇野氏のように参加したこと無い若い人ならば無理もないのかもしれないが、「全共闘=戦後」ではないし、従って「全共闘の思想=戦後の文化空間を支配した思想」ではないのだ。ここは誤りやすいところ。(まあ吉本隆明とか見てるといかにも戦後的なんだけど)
全共闘朝日新聞みたいな平和主義をもとても嫌っていたのだ。あの時代のひとつの先端的なリアルだったのだ、間違いなく。言ってみれば全共闘は極めて反・戦後的なものだったのだ。
ついでにいうと、だから「グローバリズムによって戦後が終わった」というのも「戦後」を正しく理解すれば違うと分かる。最近の我々を取り巻くこの事態は「戦後の進化もしくは完成」でしかない。ただそこに暮らす人々は「偽善」からは少しだけ目が覚め、「偽悪」にシフトしたのかもしれない。アメリカとの関係で言えば「アメリカを見ようとしない」ことから「アメリカを見ても何もしない」ことへ。
そして矢作俊彦はかつて「偽善」を撃ったがごとく、その「偽悪」をも撃つのである。最新作では相変わらず彼はリアルなものにだけ拘っている。