『新潮』 2009.1 読切作品ほか

年末は特番らしきものを全く見ず、アメ横にも行かず、おせちやお雑煮も食べず、年賀状も書かない年末年始をずっと過ごしています。
そもそも初詣というものには行ったことがなく、紅白も小学生のとき以来見てないのですから、まあそういう素地はあったのですが、2001年の大騒ぎに嫌気がさしたときから特にこういう傾向は強まりました。
なんとも小市民的な俗物的なで、ちょっと自分が嫌になったりもしますが。


しばらくネットにつなげない所(かなり地方の都市)に行って居たのですが、そこへ向かう往路でのこと、おそらく年末の里帰りなんでしょうが、田舎に帰っていく青年の多くがなんか着飾ってるんですよね。ストリート系?バッドボーイ系というか、不得手なのでよく分かりませんが、いかにも若者雑誌から切り取ったようなファッション・・・・・・。あまりジャスコとかヨーカドーの臭いがしないのです。
こういう光景をみると、あー東京での最新の流行なるものは地方出身者が積極的に作るんだよな、と思います。
下北沢開発反対運動みたいなものを全く信頼できないのも似た気持ちからです。どうせ地方出身者が寄り集まって好き勝手に作ったくせに、「もとからある自分のもの」みたいなフリしてるかのようですごく嫌なんですよね。下北沢に個性があるのは、そういう個性が田舎では成り立たないからこそだからでしょうに。
つまりは、下北沢のいいなあ思われるような光景は、田舎の寂れたシャッター光景とセットなんですよね。田舎から個性を都会に集めれば、田舎が没個性になるのは論理的に分かりきったことで、だから、シモキタ守ろうなんて人が田舎のファスト風土を難ずるのとしたら、ギャグですか、と。

『デンデラ』佐藤友哉

三島賞作品よりは退屈せずに読めたが、それはたんにこの小説がミステリ系の娯楽小説としてより完成度が高いから。ただそれだけに過ぎない。ミステリ系の娯楽小説であるからして、宮部みゆきあたりを読むのと一緒で、驚きも悲しみもなく、ようするに心動かされることはない。あるのは、謎が明かされるときのカタルシスだけ。そういうカタルシスはたしかにある。(個人的には三島賞作品にあったような、全くどうでも良いような字数揃えの言葉遊びが少なくなったことも読みやすさに繋がりはしたが。)
むかしチャンドラーが「簡単な殺人法」(だったっけ?)で、ミステリのトリックの荒唐無稽ぶりを批判したが、この小説では犯人の方法もさることながら、その動機のリアリティの薄さも巷のミステリとなんら変わる所がない。かんたんに言ってしまえば、それだけの理由でこんなにたくさん人を殺すかよオイ、という。
もっとも、そんな物足りなさは、ここに描かれる集団のリアリティの無さから比べれば小さいことかもしれない。これだけの小集団で、しかも、自らのアイデンティティに関わる問題で激しく対立している者同士がつかず離れずの暮らしを営んでいる、その事に無理がありすぎるし、考えるという事をあまりしてこなかったとされる主人公が、どうしてそんな対立者たちの間でどちらにも属さず微妙なバランスを保つことができるのかもよく分からない。思慮深くないと出来ないことだと思うのだが・・・・・・。(この主人公の内面描写に関しては、最後までその死にたいという切実さも含めて、飲み込めない事がかなり多かった。)もっといえば、これからの未来を左右するような根幹の問題で対立していればこそ、自らの同調者を多くしようとする筈なのだが、誰も主人公を説得したりオルグしようとしないのも納得いかない。
既存の「村」のように、祭祀的なものが中心にあり且つ先祖だの何だの地縁だけでなく血縁的なものもあればこそ、例えば何かの問題で町長派と反町長派が共存するという光景がある。また、過激派みたいな団体でも反日共産党という意識が高いうちはまとまっているが、その影が薄れればとめどなく分派し激しく敵対していく。大規模な共同作業をしているようには思えない「デンデラ」には共通の基盤なるものは希薄であり、なぜ分派して離れて暮らさないのか、不思議でならない。あるいは一人の指導者のカリスマ性(むかしのユーゴのチトーのような)がなんとか支えとなったりする場合もあるのかもしれないが、100歳のリーダーにそんな雰囲気も希薄だし、この小説の反主流派(穏健派)の人物に、リーダーは愛するがそれでもというような複雑な微妙な感情も見えない。
そもそも自らのことを襲撃派だの穏健派だの名乗ることもよく分からない。派に属する人間はつねに自らを正統と考えている筈で、まるで自らがひとつの部分でしかないような呼び方を自らが行うことは余り無い。(中核派の人間は自らを「中核派」とはあまり言わないものだ。)
だから、ここにはちょっとした内部対立でしかないような問題があるにすぎないのに、いかにも政治的な対立があるほうが物語が面白くなるだろう○○派××派のように、と、そんなふうにして作られたかのような、ストーリーに人間行動を従属させたもののようにしか思えなくなってしまうのだ。
ちなみに、ストーリーに人間を従属させるような類の小説としては、水準は結構高いと思う。ストーリーの運び方はもはや一流の水準にあると言ってよいだろう。並大抵の才能ではこんなものは書けないだろう。しかしとりあえず私は、これを文学として楽しむことは出来ない。