『すばる』 2010.1 読切作品その他

この前書いた事からの敷衍というわけでもないんですが、日頃からなんとなく感じている事がありまして。
それは、昨今批評家不在がいわれるのは何故なのかという事について。
つい最近も新潮新人賞から批評部門がなくなりましたが、この事態の遠因としてこういう事もあるんじゃないかなというのが、批評家に要求される知識量が時代を経るとともに増大する一方で、もはやハードルが高すぎなのではないか、という事。
明治から昭和中期までであれば、古典文学をある程度読み込んでいれば、という程度だったのかもしれませんが、柄谷・浅田時代になると文学系哲学どころか科学哲学、いやそれ以上に経済学や数学の知識までが要求され、サルトルフーコーは当たり前、ウィトゲンシュタインラッセルで止まらずカントールだのゲーデルまで知っている事が要求されてしまっている。その一方で、源氏物語アラビアンナイトなど長大な古典の知識も当然ないと話にならない。
これってきつくないですかね?時間ないでしょ?
私なんか、いや私と比べても激しく無意味なのかもしれないですが、むかし廣松渉岩波新書の哲学入門を読むだけで相当難渋しましたからね・・・・・・。入門でこれかよ、という。


風が強くて思い出すのは、自分の目が細くて良かったなあ、という事。目が小さいのって、結構ゴミとか入ってくる量が違うんですよ。