『独居45』吉村萬壱

吉村萬壱については、ただ露悪的なだけのように思えて一度も良い読者ではなかったが、これはなかなか凄い作品。これまでのような非リアリズムへと大きくはみだすような露悪的な描写で全てを押し切るのではなく、リアリズム的側面とのバランスをしっかり取り、露悪的な描写も少な目の為か、何の抵抗もなく読めた。バランスというのはどういう事かというと、あくまで「普通の」市民生活をしているものの視点を多く取り入れているということ。例えば主人公の作家に講演を依頼する老人などはこの小説のなかでは一番一般的な、つまり面白みのない人物なのだが、そういう人物の行動・心理もきちんと描いていて、彼と小説家との間での言葉尻をめぐるやりとりなどは、私にとってはこの小説のハイライトとも思えるくらい面白かった点である。書くという行為に「」づけする所とか、講演会場での適当な紹介に対するつっこみとか。
おそらくそしてこういうテーマであれば彼のような人物を出すことは必定で、なぜならば彼のような、空気のなかで適当な常套句でもって言葉を無頓着に発するような普通の人物こそが、虐殺とかそういう事態を拡大させたのだから。日常を疑わないような人物が。だから、彼が作家に責められる所などは痛快である。
その一方、ただ作家にのみ寄り添い、彼を正しいものとして終わらせるような単純な物語で無いことは注目に値する。彼のようなものが全く相手にされない状況も、吉村はきちんと直視しているのだ。悲惨なだけで終わってしまうところを、ラストにおいて、これはもうちょっと笑ってしまうレベルというか、滑稽さをもってその後の作家の有様を描いている所にそれがよく出ている。作家にできること、という事においてある意味もう悲観的というか、自虐的なのだ。自虐を描くその作品じたいがもう自虐になっている、そういう構図すら見て取れる。そして作家に寄り添い自分の言葉を持たないような人物もきちんと喜劇化している。作家に何かを代弁させること、その作家の言葉によりかかってしまうこと、そういう事どももまたあまり健全ではないのだ。先の戦争時の文学者がどういう役割を果たしたか、を思えば。
ところで作品中作品として、ある若い女性の自虐が語られるのだが、彼女の体験のうち最初のほうの映画館で輪姦され云々はともかくも、後のほう、家族が一箇所に集められ、子供がまず殺され、それから一人一人強姦されたというあたりの描写については、これは少しも非リアリズムではないことは特筆せねばならないだろう。
吉村萬壱がこれまでグロテスクな描写に拘ってきた理由の一端がこういうところ(無かったことにしているだけで実際にそこまで行き得るんだよ人間は)にあるとは、鈍い私はこれまで気付かなかった。恥じたいと思う。