『教師BIN☆BIN★竿物語』木下古栗

またまたやってくれました、と言うしかないだろう。ほんとにこの人は傑作以外書かない人だ。最新号の鼎談でいくぶん誉められていたが、これで注目度は増すだろうか。ま鼎談で取り上げる作品の基準じたい不可解なときもあるし、なんとも言えないのだが、もっともっと話題になって欲しいものだ。
同じ号の桜井鈴茂の作品ではSMがシリアスに取り上げられるのだが、この作品はそういう行為を、つまりSMなんかをシリアスな小説で取り上げる事をあざ笑うかのようなカタチで笑いのなかに置かれる。この対比じたいが面白いのだが、偶然そういう事があったおかげで言えるのは、木下古栗にとって書くということは、やはり書くことについて書くという事なんだろうな、ということ。優れた小説が小説に対する批評だとすれば、まさしく木下作品は批評的である。小説にたいする立ち位置にも第三者的眼・外部的なものを感じるし、そうでなければ、突然地の文や会話のなかにワケの分からん(かっこ)など思いつかないだろう。中原昌也も自分のことをどちらかといえばミュージシャンとか言いそうであり、外部的な人だが、ここまで自由じゃない。
そしてこの人は以前も書いたかもしれないが、文章が上手い。出だしの長文からすでにリズミカルで淀みなく走るし、その後に短文を置き、躍動感を描くのに、見事に文章そのものが躍動してるのだ。
また今作はラストがいい。まさしく批評である。ニュースなどでみられる、単純な言葉で社会問題を批評することの当たらなさ、空疎さを見事になぞっているではないか。人間誰しも暗黒面を抱えるとか、心の闇だとか、そういう紋切り型の表現のおかしさが良く出ている。(けど私もこのブログでそんな言葉使ってたかもね、冷や汗)
心の闇なんて、悲劇として表出するならまだ救いがあるのかもしれない。じっさい、行くとこまで行けばこんなふうに喜劇的にまでなってしまうのかもしれない。
とりあえず、そういう難しげな事を考える前に、この作品で笑って欲しい。当座、それだけでもいい。それだけで価値がある。ほんと随所で笑えるんだから。
私は、ベタにコースターの裏に「楽しい」と筆ペンで書くところとで思わず笑い、渡辺の勤め先(仙台の建設関係の会社の総務部)がツボだった。そしてもちろん、なぜか左右で渡辺の喘ぎと叫びを聞いてしまう所の、このバカらしさは極北だ。