『ゼロの王国』鹿島田真希

前にも書いたと思うが、今はそのとき以上にこの作品が面白くて仕方がない。
私が連載を面白いと思うための一つの要素として、一回一回の分量が多い、という事がある。一回5−6ページ程度の短さで終わってしまうと物語の展開を頭に充分刻めないので、次の月に読んでもいまいち話が分からずなんとなく読んでる状態になってしまうのだ。また、ある程度の分量があれば物語中の出来事が月をまたいで分散されずに一回のなかに描ききることも可能で、より楽しめるという事にもなると思う。
その点この作品は一回一回の分量が群像にしては多く、一回一回何かしらの盛り上がりを見せる場面もあるので、非常に楽しめる。
鹿島田真希という人は、一回も連載を落とさずにこれだけハイテンションな内容の作品を書いているわけで、とんでもない力量の人なのではないか。今更こんなこと言うのも何だが。少なくとも連載作品に関するかぎり比較すれば、芥川賞作家である阿部和重町田康などの同じ群像の連載よりも面白い。
内容はといえば、ドストエフスキーに対するオマージュと言ったら良いのだろうか。辛うじてドストエフスキーは数作品読んではいるが、物語の叙述のスタイルなどいかにも19世紀〜20世紀初頭のものだし、現実にはありえない長々とした文語的な会話で構成されている処など非常に似ている。
つまり日本的な白樺派自然主義リアリズムに全く背を向けており、むしろ構築されたもの、作られたものというのをより意識させるような書きかたをしている。まるで昔の演劇の台本を読むかのようである。今思いついたのだが、現実の会話を演劇に持ち込もうとする昨今の演劇界の流れと全く逆のことをやっているわけだ。つまり演劇界が演劇に小説的な自然主義リアリズムを取り入れようとするする一方で、鹿島田は演劇的な構築を小説に持ち込もうとしている。
しかし自然主義リアリズムを放棄したからといって、リアリティが無いわけではないのだ。このことを何と行ったらよいのか迷うのだが、同じ空気を吸う現実の人間としてのリアリティは全くないのだが、小説内人物としてはとてもリアリティがあるのだ。吉田青年やエリやユキが現実的な人物としてではなく、吉田青年やエリやユキという登場人物としてとても生き生きしているのである。こういうのこそキャラクター小説と名づけたら良いのではないか、と思うのだがどうだろう?(キャラクター小説のもとの意がいまいち掴めてないので勝手なこと言ってますが)


ところで、この作品では「愛」であるとか「友情」であるとか、労働とか生命の意味とか、今の時代に真正面から語ることなど(とくに小説のなかでは)不可能なテーマについて、登場人物(というか中心人物である吉田青年)が熱く語り、考え反省するのだが、読者はこれをどう読めばいいのだろうか。
もちろん真正面から語ることが無くなったのはそれなりの理由があるわけで、ここで行われている議論にフムフムと肯いたりする事もないだろうし、主人公青年にシンパシーを抱くどころかむしろその滑稽さだけが際立ってしまう訳なのだが、私達は彼を笑い、彼に振り回される人を笑うだけなのだろうか。ただ面白がれば、そして鹿島田の物語の構築力と文章の叙述力を感嘆していればそれで良いのだろうか。
実のところ、ここ数回に関しては、小説内の議論にいつのまにか参加して考えてる自分がいたりして、けっこう今の生活が相対化されてしまったりしているのである。少なくとも読んでいる間は。やはりこの作品は現代人に対する批評の意識をけっこう持っているのではないのだろうか。
今後は、吉田青年という特異な人物が、「世間」を知り、いかに自分がナイーブで通用しない人間だったかを描く、つまり世間というのは一言で否定できるほど簡単に作られたものではなくそれなりに合理的に構築され我々を支えているのだよと分からせる展開も充分あり得、それも捨てがたいのだが、今のところはむしろ徹底的に現代人の生活を相対化し、虚妄を剥ぎハダカにしていって欲しい気がしている。