『星のしるし』柴崎友香

つまらないつまらない言いながら柴崎友香作品は3作目。基本的な作風はまったく変化はないのだが、これまでの作品では一番読めたほうか。受け手の私自身が変化してしまってる面もあるのかもしれないが。
変化が無いというのは、同年代の男女が平気でトモダチ面して暮らし、寝たり寝取られもないような、私が大嫌いなヌルい人間関係を基本としているところ。このような、敢えて「自分」を晒してしまう事でかえって弱さを隠蔽するようなやり方は、よくありがちな「自分」の殻に閉じこもりコミュニケーションできない弱さをさらけ出すよりも、隠している分だけ気持ちが悪い。その「隠している」という事の証拠に、柴崎作品には悪意をもつ人間がいない。人間は知らないあいだに悪意を持ち、憎んでから憎む理由すらどこかから調達してきてしまうところがある。それがないとするなら、どこかに無理が生じているはずだ。
ところで今回は主人公が、「美しい女性」とか「昔の大阪」とか、今すぐ目の前からなくなっても一向に困らないだろうと第三者には思えるような、まさしく趣味的な趣味にアイデンティファイするような事はない。「占い(超常現象的なもの)」というのもあるにはあるが、それほど前面に出ているわけでなく、若い女性が普通に接する程度のものだ。ここが今までと大きく違う。このことは、外部からとくに変わった意匠を持ってこなくても作品として成立させられる力が柴崎には充分あることを示すという意味で良かったと思う。
そういうことなのだ。柴崎には力があるのは間違いなく、この作品がたとえば芥川賞をとってもあまり文句はない。非常にていねいに描かれているなあと感じる所が多数あったし、ラストのほうで、リアルな夢を見たせいで、現実のリアルが揺らいでいる所を割と長めに描いたところなど、ひとりで家の周りをぶらつくだけなのだが、濃厚で説得力のある描写である。
そこで私は考えてしまった。文学を小説を上手いか下手かだけで評価するのと、われわれがある作品を読もうとするのとは関連性の低い行為ではないのだろうか、と。私は今回の柴崎作品をあるていど評価せざるを得ないが、今後彼女の単行本を買ったりすることも無いだろうし、きっと、毎月買っていない文芸誌に作品が載ったところで一顧だにしないだろう。