『りすん』諏訪哲史

連載以外ほとんどシカトしてしまっていた3月号各誌の読切。それでも群像の諏訪氏の受賞第一作だけは、いつか読もうとは思っていた。
冒頭から、やられた!である。前作で一番ウケた所、アローンアゲインの日本語化の二番煎じから始まるのである。全く違う趣向の作品をもってきて、こんなのも書けるんですよ、となりがちなところ、あからさまな二番煎じを持ってくるこの判断には負けた。まさしく"驚く"ことを第一義に掲げるだけのことはある。途中、「ポンパ」とかも出てきて、前作を読んでない人は訳分からないだろうが、どうせ大抵の人は前作読んでるだろうし、この掟破り感がすごい。
掟破りといえば、設定もケータイ小説の向うを張っている。不治の病の少女と血の繋がりのない(遠い)兄、禁じられた恋と不治の病とダブルパンチ。間違っても兄が白血病で、妹が元気だったりはしない。
とはいえ諏訪氏は、安易なパロディに走ってケータイ小説批判を行うわけではない。素直にこれを、不治の病の妹と、彼女と言葉遊びに興じ、ときに郷愁に浸る、彼女をどこまでも支える兄のその健気さを中心に、ハラハラしつつ読むことも不可能ではない。同じ病室のキャラクターの影を意図的に薄くすることで2人の心情に読者を集中させ、キャラクターの心理に入り込めるくらい充分作りこまれている。こんな事をいうと、作者には怒られそうだが、諏訪氏の人を見つける眼差しはどこか暖かいのだ。共感の場所から書かれているのをとても感じる。
基本的には物語批判である。
物語から抜け出ることと、白血病を治すことを動機・行為として重ねあわせることで、それはなされる。人は生きていくなかでたいてい自分とその周りの状況を物語化してしまっている。それは不可避であるかのようだが、この小説では不可避として受け入れることは白血病で若くして死ぬことと直結する。死ぬ事は恐くないが、そんな安易な物語どおりには生きたくない、と描かれている事がはっきりして自分が物語りのなかにいることに覚醒する。
その通り、意識されるかされないかの違いだけで、言葉を持つという事は物語に生きる事でもあったりする。というか、場合によっては、プリンスの"The Radder"の歌詞じゃないけど、物語に生きることによってしか生を継続できないことだってあるだろう。でも、それってどうなの?という事である。
ちょっと小説の構造として安易かもしれないし、テーマも古臭いかもしれない。ただ、この小説の要はこの2人の会話を、当時の風俗なども含め楽しめるかどうかにかかってる、と思うし、そこは充分楽しめるものだ。
あと気になるのは、この小説の中で「中国」が幾度も言及されることだろう。父が持っていたホテルが帯びていたアメリカの臭いに比べ、それはこの小説にあまり溶け込んでいるとは思えない所がかえって気になって仕方がない。ちょっと前に読んだ村上春樹の評論でも、村上と中国は切っても切離せないものであることが描かれていたが、それと似たような文脈での中国への言及ではないと思うが、そんな事を思い浮かべた。我々の言語の原初にありながら、まるで我々には無い文化のように思われているのはどうしたことか、という事なのかもしれない。父親はアメリカの物語に没頭するがやがて気が触れ、そんな父親を見てきた息子は、中国と縁のある妹に恋をし、中国へと旅行までする。今回は消化不足だっただけに、この場所から諏訪氏の文学が拡大しても面白いのではないか。『ワンちゃん』が芥川賞候補になるくらいなのだし。