『文學界』 2007.12 読切作品

11/12の日記に条さんという方が言及されているのに最近になってTB見て気付きました。読んで頂いてありがとうございます。
条さんのおっしゃる事を完璧に理解できていませんので、あまり深く考えずに書かせていただくと、「格好よい」の基準は各人それぞれという事を前提にいえば、皆が格好悪いと思うようなことを「格好よい」と思ってやるなら、それもアリかな、とは思います。
ただ余程の人でないと、他人の眼が、基準が知らない間に紛れてしまっている、とも思います。(余程の人、つまりたまに異性人みたいな周りから隔絶した基準をもった人もいます。)しかし文学は、コミュニケーションの意志無しに存在しないだろうと考えると、やはりそこで「格好よさ」を目指すとすれば、誰かにとっての「格好よさ」が入ってきます。
しかも、そもそも「格好よさ」というのは「美しさ」と同じかどうか迷うところです。他人の目を気にしないような「格好よさ」なんてありえないというか、他人にあるがまま以上に良く思われるということが「格好よい」の本質なのではないか、とか考えます。もちろん「美しさ」だって、他人の基準からは逃れられないところがあるのですが。
ともあれ、早川義夫のあの言葉に色んな感じ方はあると思いますが、ロックンロールというのは、格好悪くて、女々しくて、弱弱しくたっていいんだ、いやむしろその方がいいんだ、って人たちのための音楽だって事、ここだけは譲れないという所です。