『神器―浪漫的な航海の記録―』奥泉 光

なんかやっと佳境に入ってきたというか、多面的に物語が進行するようになったりしてきたし、心なしかページも増えているような気がして、読み応え充分。
同じ連載の平野作品とか、発売されたばかりなので内容は詳しく書かない、とこの間ココで書いたが、今月の奥泉作品については、そんな事おかまいなしに触れたくてしかたないのである。そのくらい力が入った内容なのだ。
今月の内容のなかで、亡霊となった三人が語る戦後に対する批評は、この国に暮らす「日本人」と称する人がけっして無視することのできない内容を含んでいる、と思う。
純文学全般には疎い面も多い私ではあるが、比較的奥泉作品には接していて、今回の彼のこのような戦後に対する批評、いや、批評と言うよりもはや主張と言っていいだろうこれは、平素の奥泉氏の信念がそのまま出たものであって、はじめて意識的にそれが出た『グランド・ミステリー』からは、何も変化していない。つまり、私的にはそれほど目新しい驚く事態ではない。
だが、記憶で書いているが、今作品のそれは、これまでと比べよりストレートな記述となっているし、天皇に対する表現もここまで書くかという危ないものになっている。だから、目新しくはなくとも、非常に興奮して読んだし、拍手喝采ものであった。終戦記念日靖国神社に行くような人が私のブログを読むことはまず無いだろうが、そういう人たちのこの小説の中でのいわれようは痛快極まりない。
ただ、痛快極まりないとはいいつつ、決して読んでいて愉快ではないのだ。靖国にノコノコ行って参拝と称して騒ぎに参加してるだけのくせに御国のために云々ぬかしているような目出度い連中を笑うのがためらわれるくらい、省みられずに死んでいった人々のことがすぐその次に頭に浮かんでしまうからである。


奥泉氏の戦後批判は、へたすると加藤典洋あたりと重なる危険はありつつも、批判としてはごく真っ当だし、私も読むたびに、死んでいった人たちをなんでこんな簡単に忘れることができたのか疑問をもたざるを得ない。
ただ最近は自分のなかで、ちょっと風向きが変わってきている部分があり、どういう事かというと、戦後の人々の営為を一刀両断って感じでそう簡単に断罪できるものか、少し迷いを生じている。奥泉氏の主張を読んで、そうだそうだだけでは終われない、割り切れないものを感じるのだ。
たしかに死者を省みなかったのは悪い。だがしかし、戦後の人々の生活はべつに怠惰なものだったわけではないように思われるのだ。とくに終戦直後から20年くらいまでの間は。彼らの生活のなかには、彼らなりの必死さ、前向きさがあったように思われるのだ。正確にいうと、私が思いたいという事だけなのかもしれないが。
死者に後ろ指さされようとも、あえて戦中戦前のことを考えないというのは、全ての人々にとってではないかもしれないが、ひとつの覚悟のうえにあったのではないか、とか考えたりもする。前に進むためには、とりあえず振り返らないことが必要とされたのではないか
そして、そのような覚悟をもって戦後を築いてきた多くの人のおかげで、今の飽食日本があるとすれば、彼らにどういう顔をすれば良いのか、ちょっと複雑なのだ。


そこまで考えるのは考えすぎであって、多くの人にとっては、ただ生活があったのみであって、生活がより楽であるアメリカの支配に容易になびいただけであって、戦中だって、お国の為になんて熱心に考えていた人なんてほとんどいない。ときの為政に関する態度としてはほとんど変わる所がない。だから自然に移行できた。それだけの事で、こちらのほうが真実に近いのかもしれない。
ナチスドイツの頃を問われて、「夢のなかにいたようだ」みたいな事をつぶやくドイツの人を以前みたことがあるが、日本の場合はそこまで行っていたのだろうか。早い話、日本人なんてもしかしたら戦時中から「夢」なんて見ていたわけではないのかもしれない。


そうは言っても問題は死んでいった人だ。「御国のために」殺されていくというのは、いつだって悪夢以外のなにものではないだろう。
どうしたら良いのか、すぐに答えが出る問題ではないが、今ひとつ知りたいのは、彼らにとっては、潔く忘れたという営為と、そもそも戦中から深く考えてなかったという営為と、どちらであれば浮かばれるのだろうか、という事だ。