『アウレリャーノがやってくる』高橋文樹

小説なんかほとんど全く書いたことがないくせに、たいへんだろうなあという思いが最近増していて、新人の人に対してはなんか[紙の無駄]と言いづらい気もしてきていた私なのだが、この作品はそこまで迷わなかった。
とりあえず最後まで読むのがそれほど苦痛ではなかったからだ。とりあえず最悪のラインまでは行っていない。
これだけストーリーらしきものがないのに「読めた」のは、文章上読みやすくするテクニックがそれなりにあるのであろう事と、いろんなキャラクターが出てきて、すくなくとも何かが起こるのかなという期待はもてたから、なのかな。
ただキャラをいろいろ作った割には大したことは起らないし、読み終わって何かが残るかというとまず何も残らないだろう。苦痛ではなかったが、楽しめたかというと退屈感のほうがはるかに大きい。
何がいちばん退屈させたかというと、よくある青春小説っぽいもの−若さゆえの無鉄砲さを描いたもの、の域をまったく出ていないところ。より深くやるわけでも、より変にエキセントリックにやるわけでもなく、またパロディ的要素があるわけでもない。また、例え類型的なものであっても、主人公がなんらかの共感をもたらすようなものでもあれば良いのだが、2、30年前ならまだしも今時この手の無鉄砲さが共感など得るわけでもなし。
そもそも全体的な印象がジャニーズの誰かが主演したTVドラマみたいな感じであって、どこか安っぽくウソっぽく(ウソっぽいのは小説だからいいのだが、安いウソはいただけない)、例えば、肝心なところである代理詩人とやらの美しさがあまり伝わってこない。そしてその代理詩人が信奉する皇子とやらにも信奉にたるだけのカリスマ性を感じない。他にも例えば、太宰治の取材でのバカっぷりもTVドラマ的で、切迫感というか取り返しのつかなさが、無い。
最後になって、これは成長途上の者が書いた詩なのだ、と言われても、じゃあ今まではなんだったんだよって話で、この小説が読まれるべきであるとするなら、稚拙な中でももうちょっと冴えなり輝きがあって良いんじゃないか、と思う。
それが出来ないのなら、最初から最後まで三人称神視点で、成長途上を装わず書いたほうがマシなのではないか。
ほんらい最も興味深い面白いものとなる可能性のある(唯一異形っぽいかんじの)潮さんと皇子との関係が、ただの大人の関係みたいに処理されてしまってるのが、この小説のそうした構造(成長途上の手によるという)のせいだとしたら、なんとも惜しい。というか一番読みたいとこが読めなくてもどかしい。今のままではたんに訳が分からないだけだが、作りこみによってより立体的な人物になる要素は、主人公なんかより潮さんのほうが遥かにあると思うんだけどな。


ところで評論部門が廃止になるそうだが、残った小説部門がこれでは、新潮新人賞、先行きなかなか厳しそうである。選考委員にいくら鋭そうな眼力のある人を持ってきたところで、作品自体が良いのが集まらねば話にならないだろうし。うーむ。
といって、公募ではない三島賞はどうかというと、直近ではあんな感じだったし。うーむ。