『創作合評』笙野頼子+伊藤氏貴+中島たい子

小説は書いてみないと分からないらしいので、作家が多く登場するこの鼎談は、高橋さんや保坂さんにはけっこう参考になるんだろう。
などと皮肉もいいたくなるのは、ここで毎月行われている小説家が行う評論が、それほど違和のあるものではないと感じるからだ。けっきょく小説家だって、他人の小説を読むときは文芸評論的な読みの枠内で考えている、のではないか。鼎談のなかに一人かふたり紛れている評論専門の人と小説家の対談も、たいていスムーズに進行していて、「ここは小説家でないと分からない所ですから」「いやそう言われても」というギクシャクしたやりとりは見られない。口頭の対談だから?


で内容なんだけど。
最初に論じられる青山真治の作品については、わざと稚拙と思われるような書き方をしたみたいなニュアンスの好意的な雰囲気はあるが、作品としての出来はイマイチというほぼ納得の評。青山氏がもともと文学志向の人で映画ありきの人でなかった事も知ることが出来た。
また最後の津村記久子作品についてはどう評されているか、もはや他人とは思えないくらいドキドキしながら読んだが、みんなほぼ絶賛。ほっとした。2、3注文を付けられている箇所があり、それもなるほどという部分があった。なんかいつも思うんだけど、イメージに反して笙野頼子がすごいイイ人っぽい。絲山的過激さを期待するとちょっと拍子抜け。


で、問題は宮崎誉子。ちょっとこれはないんじゃないの、という内容。
近代小説の稚拙な再生産をしているかみ見える青山真治をあれだけ深読みしようとしてあげながら、宮崎さんに対してこれですか。まるで青山氏がちょっとコワモテ風で宮崎氏がそうでないからみたいで、これこそハラスメントの雰囲気なんだけど、まあこれはそんな事はないにしてもですね。セリフが描き分けられてない、とか女性たちを悪者にして、とか深い感情が書き込まれていない、とかなんとも的外れとしか思えない。リアリズム小説のようにコレを読んでどうするの、という。あえて若い女性を均一なキャラにしたり、あえて深い感情描写をしないようにしている、そういう所こそが宮崎作品の面白さだろう。前も書いたこと繰り返すけど、この主人公みたいに軽妙な会話を繰り出せる人が、深い内面を持っていないはずがないのであって、それを読者が想像・創造することこそ、文学としての「読み」だと思う。
また深読みといえば、笙野が国家視点文学云々といってるが、これもひどいと言うべきだろう。笙野は社会構造が宮崎より分かっているらしいが、視点云々ということで言わせてもらえば、言わば笙野のは学者の視点からの「分かってる」なのだ。現場の労働者がなぜこんなバカらしい単純労働に一所懸命になってしまうのか、は笙野には分からないだろう。また、稼いだ金をブランドものにつぎ込んだりする下層OLや、酒場でのエロ談義が楽しくてしかたない日雇いの事も分からないだろう。笙野のほうこそ、社会構造を前面に出し、下層労働者をグローバリズムの被害者として均一化して「理解」しているように思える。それは、個々のミクロの状況を考えていないが如しであり、また、怠惰でありときに無駄に勤勉である人間というものの、バカらしくも悲しき人間らしさを閑却しているようでもあり、なのだ。
そもそもこういう労働の現場をずっと書いてきた宮崎氏が、その現場やニートだの引きこもりだのが、グローバル経済の進展と密接に関係していることなど、とうに承知しているに決まってるだろう。それを無自覚みたいにいうのはちょっと失礼に思える。