『カソウスキの行方』津村記久子

前作とは異なり今作は、あの傑作『ハムラビ法典』に似た雰囲気のコミカルなタッチの作品で、ちょっと疲れたOLが主人公となれば、もうこれは面白くない筈はない。津村記久子すげー、という感じである。
とくにエキセントリックな趣向をこらしているようには見えないリアリズム系の小説で、これほど面白くかけるのは貴重だろう。私が読んだ津村作品は、すべて近い人、現場の人を描いていて、言うならば半径5メートルの小説。電車の中で隣り合わせるような人、肩まで伸ばした無難な髪とカットソーに膝丈スカートのOLとか、黒鞄に白系のYシャツでiPOD聴きながら携帯ゲームやってる小ギレイに手櫛したサラリーマンとか、を描いている。
そういうなかから、よくこれだけ面白い、物語や背景の着想を引き出してこれるなあ、と思う。


普通の人でもじゅうぶん面白いということ。たしかにそれは分かっている。私のこの狭い交友範囲だってそうなのだから、あなたの周りにだって、いっけん普通の生活を送ってるふうで、「変わってる」「おかしい」奴はたくさんいるはずだ。
ただ、それを作品にし、なかんずく立体感をもった、まるで息してるかのごとく近しいキャラが出てくる小説とするのは、類稀ともいえるくらいの観察眼が必要なのではないか、と思う。きっと津村さんはそこもスゴイのだ。
前に女性作家が女性を主人公にしたばあい、周りからちょっと浮いたエキセントリックなキャラが多い、というような事を書いたが、津村作品にはそんな事はなくて、あくまで「普通」の範囲内で「変わってる」のだ。これも愛すべき特徴のひとつなのではないか。


そして押さえておきたいのは、津村作品の主人公やその他の登場人物は、現代的で、ゆえに人間関係にも乾いているし、非エネルギッシュなのだが、どこか、熱さや、真剣さ、を捨てていないこと。
イリエという主人公の、素直に家庭を持つことのできないところ、マンションや保険のパンフを溜め込んでいるところ、そうなってしまった背景−抜け出してきた家庭、そしてまた、あまりにも慎ましいグループホーム云々の夢など、コミカルさに隠され気味ではあるが、その切実さ、前面には出さないけどもそのぶん真剣なのだ、というのはちょっとホロリとくるくらい伝わってくる。


またもうひとつ、資本主義社会、競争社会の生き難さと、それでもそのなかでやってかざるを得ない諦念みたいなものを、深刻ぶらずに、しかしきちんと描き、読むものに感じさせていること。
イリエが簡単に辞めないこと、倉庫仲間の年下上司においてもまた、通勤条件が悪化しようが辞めない。
これらを描くことで、また半径5メートルという、近さ、がより際立ってくるものとなっている。
そして、もちろんそればかりを描くのではなく、まるで我々の生活の中の楽しい部分と深刻な部分との割合と同じか、それ以上には面白さを優先させてくれている。きっとその割合も絶妙なのだ。その絶妙ゆえに、まるでもうひとつの私たちの生活がそこにあるかのごとく津村作品を読み、キャラを愛してしまうのだ。


けっきょくカソウスキの行方はどうなるのかというと、完全成就とはいかない中での最高のところに落ち着いて、そのことを描く最後の、変化球のキャッチボールをしているようなメールのやりとりでは、不覚にもジーンとしてしまった。
こういうのを恋愛小説と言うべきだろう。死だの病気だのを持ち出さなくてもここまで書けるのだ。そういうすごい人がいるのだ。