『群像』 2007.4 拾遺 ちょっと書き忘れ

昨日書き忘れたのだけれど、群像に高橋源一郎の『ニッポンの小説』の書評が載っていて、ちょっと面白かった。(たしか書いていたのは水牛健太郎氏)
その中で、保坂和志が小説家という書き手による小説論というのを目指していて、んで、「愛情」とか「尊敬」のないような評論家たちの外部基準よる評論を認めない、というような事が書いてある。
趣旨は、高橋源一郎もそのような考えに達したのではないか、という事なのだが、保坂のその方針ってそんなに高尚なものなのか疑問。彼が評論家に対して厳しいのは、どうせ江藤淳にクソミソに悪口を言われたのをいつまでも根に持ってるからなんじゃないか、と睨んでいるんだけど。


いやそんな下世話なことは多分無いんだろうけど、保坂なんて最近どちらかといえば評論ばかり書いていて、小説なんてあまり書いていないわけだし、書いたとしても猫の話ばかりといっても過言でないくらいで、構築的なものなんてほとんど書いてないわけだし。小説家なの?評論家なの?と考えると評論家なんじゃないの、と。
そう考えると、保坂の小説論は、ふつうに評論家の小説論という事になる。ただ芥川賞作家が書いているからという理由で書く場を与えられてはいるだけで、そんなに特異性があるとは思えない。あえて特異な点は、専門の評論家の書く評論に比べて言ってることが分からない、だけなんじゃないのか。
むしろ保坂の書く小説が、評論家が書く小説みたいなものになってるんじゃないのか。理屈ばかりが前面に出ていて、物語的なものがほとんどないような。べつに評論家が書くと、そういうものになりがちという事もないんだろうけど。


ついでに。高橋源一郎の場合は、評論家としては保坂なんかよりはずっと分かり易く、かつときに鋭く、説得力のあるものを書いて来たと思う。高橋の小説のほうは、あまり読む気はしなくて実際読んでないのだが。