『文學界』 2007.12 読切作品

11/12の日記に条さんという方が言及されているのに最近になってTB見て気付きました。読んで頂いてありがとうございます。
条さんのおっしゃる事を完璧に理解できていませんので、あまり深く考えずに書かせていただくと、「格好よい」の基準は各人それぞれという事を前提にいえば、皆が格好悪いと思うようなことを「格好よい」と思ってやるなら、それもアリかな、とは思います。
ただ余程の人でないと、他人の眼が、基準が知らない間に紛れてしまっている、とも思います。(余程の人、つまりたまに異性人みたいな周りから隔絶した基準をもった人もいます。)しかし文学は、コミュニケーションの意志無しに存在しないだろうと考えると、やはりそこで「格好よさ」を目指すとすれば、誰かにとっての「格好よさ」が入ってきます。
しかも、そもそも「格好よさ」というのは「美しさ」と同じかどうか迷うところです。他人の目を気にしないような「格好よさ」なんてありえないというか、他人にあるがまま以上に良く思われるということが「格好よい」の本質なのではないか、とか考えます。もちろん「美しさ」だって、他人の基準からは逃れられないところがあるのですが。
ともあれ、早川義夫のあの言葉に色んな感じ方はあると思いますが、ロックンロールというのは、格好悪くて、女々しくて、弱弱しくたっていいんだ、いやむしろその方がいいんだ、って人たちのための音楽だって事、ここだけは譲れないという所です。

『乳と卵』川上未映子

さいきん地雷踏みそうな作品は避けていることもあって、[面白い]ばかりになってしまった当ブログだが、この作品は掛け値無し最高に、いや、最ーーー高に面白い!
連載が私的に低調な『文學界』ではあるが、これ一作で買う価値はある。真面目な話、芥川賞はもう決まっているのかもしれない。
俄かに注目されながら、んで、あちこちでエッセイだの書くようになってもしや消耗しているか思いきや、こんなに余力があるとは驚きである。私にとってエッセイを除けば今作がはじめての川上未映子作品なのだが、基本的に話題になってるからといって手を出すような読書をしていないわけではあるし不思議ではないとはいえ、その事ともうひとつ川上作品に手が出なかった理由は関西弁というところ。ここにひっかかってた。なんかそういう「目新しさ」みたいなものはもういいや、っていう気持ちもあったし、もしや金井美恵子の関西弁ヴァージョンみたいな作品ではあるまいな、とか勝手に想像して敬遠していたのであるが、いや全くの杞憂、ちゃんと伝えようとする人であったのだ、川上さんは。
もちろん関西弁であることが大きな特徴であるし、それゆえの魅力もあるし、関西弁であることがこの作品のアイデンティティーを決定付けている要素といってもよいくらい重要なものなのは確かだが、なんというか、そうでなくてもいいのである。そこばかりクローズアップすべきでないというか。
つまりいろんな状況や心理を生き生きと言葉にできる能力が川上にはあるから、こそなのである。別の人が関西弁でいくら書いたところで、ここまで生き生きとした関西弁小説にはならないだろう、という。また、もしも川上未映子という人が関東に生まれて標準語で書いていたとして、悲観的な状況をどんよりと書くようにはならなかっただろうという(のは言い過ぎかな、そのへんはよく分からない)。


この作品について本題的にいうと、言語との距離感の取り方がまず素晴らしい。言葉というものはいったいどこまで表現できるのかできないのか、とか信頼すべきなのかすべきでないのかとか、つい言ってしまうことと言えないこととの間にどういう差があるのか、とか、単刀直入にいえば、言葉ってなんなんだ、というそういう問題意識が見事に小説としてストーリーのなかで消化されている。似たような問題を抱えていても、お話があって読者が楽しめるかどうかでぜんぜん違うのだ。知性は知性として別にあろうと、作家としての能力はこういうところに出ると思う。例えば、三島賞佐藤友哉とかああいう作家とは、言葉に対する希求度はたとえ大差なくとも、その希求度の表現においてはるかに上を行っている。
また、よく音楽系の人で、言葉にできない、とか、言葉じゃないんだ、とか軽々しくそういう類のことを歌詞にするような人がいるが、言葉なんてほんとにどうしようもないんだけどそれでも言葉なんだよやっぱ、というこの小説の覚悟とは、凄まじい差があると思う。


それと、小説内で説明してしまうことと読者に任せるところの境界の上手さも特筆すべきだろう。例えば、胸をおおきくしたい理由を聞かれて「若さというのとは違う」という所など、ではなんで?というと、読者にはそこが一言では言い表せないけれどもよく分かるのだ。言葉にうまくできないけれども分かると言うことを共有できる。これがダメな小説だと、分からないことは「なぜだか分からないが」などと放置されて、読者には想像も気持ちの共有もできないものになってしまう。元夫に会いに行きながらそこで何があったか、などもあえて明らかにはならないが、酔っ払って帰ってきたことから、いろいろ想像できる。このへんの小説らしい楽しみ方を味合わせてくれるのは素晴らしい。


胸の大きさと男性社会についての言い合いとか、銭湯での乳観察とか、笑える箇所も数知れず。
また、比喩とかの表現でも上手いなあ、という所も多く、鉛筆片手に読んでたらもう線引きまくりだろう。
ラスト近くで、「わたし」がノートを読んだときの、描写がすごい。わたしの目が震えているのか、光が震えているのか、文字が震えているのか、のところ。ここがまず良い。
そして主人公は十五分かけてゆっくり読み、それをさらに最初からもう一度読むのだ。もしかしたら的外れかもしれないが、ここにもすごい深さを感じた。通俗的な描写ならば逆だろう。でもこちらのほうが真実に近い。だってそうじゃない?最初からかみ締めるように読んで、そしてもう一回ただ読んでしまうのだ。
ラストの2ページをわたしは、それを読んだ主人公の心になって緑子のノートの内容に涙し、また、ここまですごい表現をする人がいるのだということに涙し、二重の感動にまみれて、それこそかみ締めるように十五分どころかもっと時間をかけて読んでいた。