番外編―『文學界』に反省を求む

えーと、生きてました。(と、書いても定期的に読んでいる人は最近いるのかわかりませんが)
とりあえず、昨日発売の文芸誌をパラパラ各誌眺めて居たのですが、単刀直入にいって、『文學界』の新人小説月評が酷すぎます。余りにひどいので、番外編として今日は書かせて頂く次第。


問題は右側の黒瀬某氏のもの。
純文学をもはやマイナーなジャンルと切って捨てるのは別に構わないし(現実として実際そうでしょうし)、マイナーなジャンルとしておきながら、同時代に向き合えとか今それが書かれる必然性を問うのも、読んでいてクエスチョンマークが駆け巡るというかなんか矛盾を感じますが、物凄く好意的に解釈すれば、黒瀬氏は純文学をマイナーとしつつもマイナーであってはならないと思っているので必然性など云々するんだ、と、きっとそういう事で、これくらいは看過できます。
しかし島本理生の作品に対する評は、これは、どう考えてもおかしいでしょう。
神戸の例のサカキバラ事件の頃を描いた小説に、なんでケータイだのネットだのが要求されるんでしょう。あの頃であれば、いまだ女子高生だってポケベルであって、中学生で携帯なんてかなりの少数派で、公衆電話で小銭を使って友達に電話するのは描写として全く当然です。むしろ携帯を使う方が小説としてはおかしい。何しろ、他にもセーラー服だのサクマドロップなど出てくるんですから。
極端にいえば、東京オリンピックの頃に戦後の闇市の頃の苦労を書いた小説があったとしてそれに対して、「闇市なんてどこにもないよ今はスーパーマーケットだよ」とか言っているようなものです。
だいいち2009年に1997年の頃の話を書いて時代錯誤とか言われるのなら、太平洋戦争の頃の事を「今の問題」として書いてきた例えば奥泉光古処誠二はいったい何だというのでしょう。


むしろ黒瀬氏がこの小説を現代のものと勘違いしてしまった事がその意に反して示しているのは、この小説は1997年を描いていながら現代にも通じる側面が大いにあるということです。むしろ、この小説にケータイを装置として要求すること自体が、この小説が現代的であることを証明してしまっているのです。


ともあれ、黒瀬氏にたいして私はとくにものを言いたい訳ではありません。興味が薄らいでいる人の読みを責めても仕方ないでしょう。
ただこれを載せた編集者には反省してもらいたいものです。こういう月評のばあい編集者は大抵そこで評されている小説には目を通している筈なのですが、こんな無惨な評が載るのであれば、ろくに読んでいないと思われても仕方ありません。
しかも島本作品が『文學界』に載ったのなら、継続的に買ってる人が多いでしょうから、ああ的外れな無惨な評論が載ってるなあで済む可能性が高いかもしれませんが、他誌に載った作品です。島本理生の作品を読んでいない人がこの評論を読んで、ああ島本というのはこの程度の人なのかと思ってしまったら、という可能性を考えると、これは編集の怠慢とも思えます。純文学雑誌が作家を大切にしないで、どうするんですか。


これほどの作品を書ける島本理生が、この程度の評でどうこうというのは心配無用かもしれませんが、『七緒のために』、良い作品だっただけにこの後味の悪さには書かずにはいられませんでした。
買うの止めようかな。