『天空の絵描きたち』木村友祐

高層ビルの窓を拭く仕事をしている人たちの話。つまりは下層労働者の話で、この作家は一貫しているなあというところ。下層が善玉で上層が悪玉という単純左翼的世界観が気になる向きもあるだろうが、物語のつくりが巧みなのでそれほど抵抗なく入り込めるし、近年の、下層こそが抑圧の主体であったり(朝鮮差別とか)、上層にあるものが下層と自らをつごうよく仮装したり(原発をめぐる状況とか)、な状況で、ともすれば決定不可能な虚無に陥りそうな世にあって、むしろこういう単純な世界観の小説はあっていいのではないか。下層労働者が現状に前向きになってしまうのはその肯定につながるとかいっても、体を動かす下層の仕事はたいてい誰かが結局はやらねばならぬことだし、大銀行とゼネコンがいくら開発の青写真を描こうとおれたちが鉄骨担がなかったら何も進まないんだぜ、くらいの誇りはあっていい。

『脱走』磯崎憲一郎

連作の四回目。三回目の作品にはここでは触れなかったが、相変わらず筆(とうかキーボード?)一本で、つまり想像力で現在をどこまで突き崩すことができるかというところは変わらないものの、やや読者として磯崎作品に慣れてしまった面もあるのか、正直書かなければということがなかったんである。この作品も魅力的なエピソード(氏独特の、不可解さをあえてそのままに解かずにおくようなエピソード)はあって、けっして嫌いになれないし、書いてあれば読んでしまう作家なのだが・・・・・・。と、こんなふうにもやもやとしたこと書いてるが、作家に次から次へと新らしさ、新次元、新境地を求めてしまう消費者としての読者のありかたこそ問われるべきなのかもしれず、なので、固有性一回性にこだわる反・一般性、もっといえば反社会学な作家として私にとっては磯崎氏は貴重な作家です、とフォローしておく。
と、ここでメモ的にここでこの小説とはまったく関係のない話を書く。磯崎氏の小説も先をあまり定めずに任せて書くというやり方をしているらしく私もそれにならってということではないが、そもそも習おうにも頭の程度の差がありすぎるのだが、近年”介護離職”というのが問題となっていて、介護のために長年働いた職場を離れ、つまり退職して限られた時間のなか新聞配達をしながら生活保護にも頼りつつ親の介護を続ける中年男性をテレビで見た。彼がその現在をどのように受け止めているのか。それは彼自身にとってもうまく語る事ができないらしく、「しかたがない」以外の言葉がないのだが、それは聞かれればそう答える以外にないからそう答えたようにも見え、聞かれない限りただ続けるというその受け止めの光景が頭から離れてくれない。磯崎作品の主な読者層はたぶん有閑な文芸趣味のひとたちで、むろんそういう人たちこそ虚無を抱えているのだろうが、あの彼の虚無すら感じないだろう介護の日々の空白にこそ、いま向けられるべきなにかがあるのではないか。
磯崎氏の作品によって、「いまここ」の奇妙さ、かけがえのなさに多くの人に触れてほしいと常々思っている私は、こんなことを今思い浮かべてしまったのだが、ただ、彼のような人には小説など読む暇も金も恐らくない。

『□(しかく)冬』阿部和重

体の一部を食してみたり何かを装着してみたりと少し90年代SFっぽい世界。いや90年代というのは、私がSFについては90年代までしか知らんからなのだが。ただ出てくる人物はまちがいなく現代に接続されていて、虚無的でありながらも、もはや虚無的であることが当然であるかのように絶望せずに生きていて、感触としては長編「クエーサー」の世界をよりSF的にしたような感じ。

『問いのない答え』長嶋有

なんでこんなものに付き合わされるのかと苦痛極まりなく、借りた本なので偉そうなことはこれ以上いえないが、この連作ではiPhoneツイッターなどが小説内で重要な役割を果たしているのが特徴。読みながら一瞬、ツイッターとかがこんなにつまらない使われ方をしているのであれば、やらないでいる自分はなんて正解な奴なんだと思ったりもしたが、世間でこれだけ使われていて、中毒などという言葉もでるくらいなのだから、きっとこの小説が全然届いていないというのが正しいのだろう。あと何度か書いたかもしれないが、文章に現れる長嶋有らしい凡庸なユーモアが私の肌にはまったく合わない。なんか「今さら」って感じがするんだよね。この作家については、”半周遅れの人”という言い方が私のなかでぴったりくる。

『奇(くす)しき岡本』高樹のぶ子

人物が描けていないからダメ、というのは、いまや誰一人として行わない類の類型的な批判だが、ここに出てくる主人公女性があまりに素朴で現代との接続感がなく、そう言わざるをえない。ただし優しい私は小説として批判するわけでなく、掲載誌が違うんでないのと思うだけ。

『関東平野』北野道夫

なんかこれまでの北野作品に比べ、作品自体も短めであるばかりか内容も地味というか仕掛け的なものも余りないように感じたのだけれど、これ芥川賞候補にたしかなったんだよね? さいきん賞の動向にますます興味が薄れていて後からどこかでちらりと目にしただけなので、記憶違いではないとは思うけど、選考委員がどう反応したかまでは知らず。(そもそも村上龍山田詠美の反応以外はつまらんし。)
題名で関東平野というからには射程がひろく著者の作品に込める意欲の強さを伺わせ、その広大な荒廃加減がいくらかでも味わえるかと思ったが、たしかに主人公と主人公が昔知った女性(主たる登場人物はこの男女だけ)の荒廃加減はじゅうぶん出ているが、舞台として小説に出てくるのは郊外のショッピングセンターや東京駅周辺とその通勤圏内くらいなもので、読後にこの題名は偽りありかなと思ったものだ。しかしよくよく考えてみて、関東平野というものをどう書いたらそれを表せるか、としたときに、この特色のなさ、描かれのなさこそが、むしろ関東平野らしくはないかと考えれば、逆説的にそのらしさは出ているのかもしれない。じっさいにはクルマにはじまりクルマに終わる的なものでこそ、関東平野だと、人のにおいと無機化合物のにおいでむっとするドアを開けた時のにおいを感じさせて欲しいと思うけど、主人公は関西の人間らしいしね。
内容は、夢の断章を集めたかのような内容で、これといった物語、筋的なものは希薄だ。しかも、現実に引き戻されつつのときどき夢にというのではなく、シチュエーションを変えて主たる登場人物の男女が出会ったりすれ違ったりという内容で、さっきも言ったように会話の調子などからも女性の心は広大に荒れてはいるが、このような文「芸」的なものに辟易していたときに読んだせいなのか、楽しさは感じなかった。むろん、たとえばデヴィッドリンチのインランドエンパイアみたいな映画が楽しめるような人にはこういうのがいいんだろうが、私は最後まで見る事もできなかったんだよね、あれ。
登場人物がときにびっしょりと濡れていることをもって、津波との関連性を指摘する評もあったようだが、これに関してはなんのことやらさっぱり。

『ピーナッツ』中山智幸

なんか文學界作品はどれも「普通」か「面白い」ばかりで、こきおろしも大絶賛も少なめだが、実際のところは意図せずそうなっているわけで、ストレス解消したい私も淋しいのであります。(さいきんはもう予めあまりに面白くなさそうなのはトライしていない、というのもある)。
また、予め色眼鏡で読んでいるわけではないよというポーズを示すためにこのブログでの評価変えたりもしていないつもりで、中山氏にも以前厳しい事書いたのに、嫌悪感が少なくなっていてこういう評価になってしまう。読む人を戸惑わせるだけの、昨日今日小説書き始めた人が一所懸命ひねりましたみたいな比喩が前よりだいぶ無くなって、主たる登場人物のひとりよがりな善悪判断も幾分弱まっている。ように思うのだが、それほど実証的なものでもなく、過去の作品を再読までして比較するつもりは微塵もないので、読む私が変わって、中山氏本人は一貫しているのかもしれない。
話がうごくきっかけとして震災云々出てくるが、震災に面と向かって書かれたいくつかの他作品のように、それによって変わった何かがにおい立つこともなく、メインはあくまで家族や社会(仕事など)との葛藤なのだが、それはそれで全くかまわないことだろう。あれほどの出来事でも結局私たちは変わらなかったのだから。出来事としてそれを消費したあとは、ときおり気が向いたときに東京電力や政府を批判するだけなのだから。
でその葛藤の描写についてはとくに不満も覚えず、女姉妹たちや会社の同僚女性にもそれなりの外部性があり、主人公の彼女たちに対する態度が格別ひどいっつうこともない。ただ大きな難もあって、話の中心ともなった主人公が一番大きく関わった謎めいた女性の、その存在の意味がさっぱり伝わってこないところには首を傾げてしまう。白い部屋を黒く塗ってしまう暴力的なオチも(それは中山氏の作品の恒例ともいえる所なんだが)、さきほど嫌悪感少なくなったと書いたが、正直あまり感心しない。
かといって、そういう暴力で発散することさえままならないのが今の我々という弱々しい存在のリアルだからといって、中山氏までそれに染まってしまえとまでは言わない。たとえ優れたものでも皆で同じようなもの書かれてもそれも困る。どっかの男性作家のように「暴力」や「性」をあからさまに描くのが文学だとか勘違いされても困るというはなしだ(話に読者を引きずり込むのが難しいのは分かるにしても)。